1989年(平成元年)2月28日、「パソコンが変わる、タウンズが変える」のキャッチフレーズとともに、富士通の「FM TOWNS」が発表された。富士通独自のOS「TOWNSシステムウェア V1.1」を搭載、CPUには32ビットCPUにはIntelのi80386(16MHz)を採用、そして日本のパソコンで初めてCD-ROMドライブを標準搭載していたことも注目を集めた。
80s!
1989年(平成元年)2月28日、「パソコンが変わる、タウンズが変える」のキャッチフレーズとともに、富士通の「FM TOWNS」が発表された。富士通独自のOS「TOWNSシステムウェア V1.1」を搭載、CPUには32ビットCPUにはIntelのi80386(16MHz)を採用、そして日本のパソコンで初めてCD-ROMドライブを標準搭載していたことも注目を集めた。
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1989年(平成元年)2月24日、87歳で崩御した昭和天皇の大喪の礼が、小雨のなか東京の新宿御苑で挙行された。この日は本葬にあたり、国事行為の大喪の礼には国内外の要人約9800人が参列。参列した国は164を数え、会場には、就任まもないアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領、イギリスのエジンバラ公(エリザベス女王の夫君)ら元首クラス、また国連のデクエヤル事務総長など国際機関の代表が顔をそろえた。
昭和天皇のご遺体を納めた棺は、皇居から新宿御苑まで「轜車(じしゃ)」と呼ばれる自動車で運ばれてた。雨の中、皇居から新宿御苑までの沿道では、20万人以上の人々がが葬列を見送った。
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1989年(平成元年)2月11日、TBSの深夜番組『平成名物TV』の1コーナーである『三宅裕司のいかすバンド天国』の放送が始まった。司会は三宅裕司と相原勇。第1回の審査員は、萩原健太、中島啓江、グーフィ森、ラッシャー木村、土屋昌巳の5人だった。(審査員は、1989年3月25日までは5人体制、4月8日放送分から7人体制となった)
第1回の放送では、ちょっとした事件もあった。8番目に登場したヒステリックスの女性ボーカルが、小さくなったワイプに怒ってカメラの前に飛び出し、「ズボン脱ぐぞコラー!」と生放送中にもかかわらずジーンズを下着ごと脱ぎ始めた。スタジオは騒然となったが、カメラマンの機転で画面は徐々に三宅のアップに切り替わり、その瞬間が生放送されることはなかった。ADに退場させられる姿がちらっと映り、ヒステリックスの記録はイカ天史上唯一の「退場」となった。この事件もあって、番組は1回目から大いに話題となり、1989年の新語・流行語大賞の流行語部門・大衆賞を受賞するまでに至った。
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1989年(平成元年)1月27日の午後5時頃、佐賀県杵島郡北方町大峠の山林近くでドライブ中の夫婦が崖下に落とされている女性の遺体計3体を発見し警察に通報した。3人の遺体は、1975年(昭和50年)から1989年(平成元年)までに発生した佐賀女性7人連続殺人事件の被害者、5人目、6人目、7人目とされている。遺体発見現場が北方町だったため、3人の女性(5人目から7人目の犠牲者)が遺体で発見された殺人事件は「北方事件」と呼ばれている。
4件目までの事件は、捜査機関が犯人を起訴できずに公訴時効が成立した。残りの3件の事件も、起訴されたものの裁判で無罪が確定したため、7件とも未解決事件となった。裁判では、上申書が限度を越えた取り調べの上で担当者の誘導により作成されたと認定されるなど、佐賀県警や検察の杜撰な捜査が批判された。
犠牲者7人のうち6人が水曜日に失踪していることから、「水曜日の絞殺魔事件」とも呼ばれている。
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1989年(平成元年)1月21日、アメリカ・アリゾナ州フェニックスで、デビュー前のスバル・レガシィセダンRSが、10万キロ耐久走行における走行平均速度223.345km/hを達成、FIAの連続走行・世界速度記録の国際記録(当時)を樹立した。2つの世界記録と13の国際記録を更新し、レガシィのデビューを華々しく飾った。
この記録は、燃料補給やメンテナンスなどのロスタイムも含めた19日間で達成した速度記録である。記録挑戦に参加したメンバーは総勢150名、うちドライバーは21名。そのドライバーの全員がSUBARUの社員だった。
走行開始は1989年(昭和64年)1月2日。1月21日のゴールまでに要した時間は、447時間44分09秒877、日数にして19日間だった。
この記録は、カテゴリーBという、量産車ないし量産試作車のカテゴリー。スタンディングスタートによる計測方法で、その記録は2005年にメルセデス・ベンツE320 CDが225.903km/hをマークするまで、16年に渡り破られることはなかった。
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1989年(平成元年)1月8日、前日(1月7日)の天皇陛下(昭和天皇)の崩御に伴い、皇太子殿下(明仁親王)が皇位継承、元号を改める政令に基づき「平成」に改元となった。日本の元号史上初めて法令(元号法)に基づいて改元が行われた。
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1989年(平成元年)12月29日、年内最後の取引日「大納会」を迎えた東京証券取引所で、日経平均が史上最高値を記録した。終値は38,915円87銭、取引時間中の高値は38,957円44銭、バブル経済の絶頂期だった。
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1989年(平成元年)12月16日、中華人民共和国の民間航空機がハイジャックされるという事件が起こった。犯人の中国人男性(当時35歳)は妻子を連れて搭乗しており、爆発物を所持していると脅迫し——実際は丸腰であったが、韓国のソウル行きを要求した。
機長はソウルに向けて飛行したが、中国と国交を結んでいなかった韓国政府は強硬に着陸を拒否、戦闘機をスクランブル発進させたという。機長は韓国領空への進入を断念、済州島上空から福岡へ向けて進路を変更し日本領空へ向かった。スクランブル発進した自衛隊機の監視の中、福岡空港へ着陸した。
福岡空港にて客室乗務員が犯人に「韓国に到着した」とウソをつき、隙を見て機体後部の非常口から犯人を滑走路上に突き落とし、犯人は福岡県警察福岡空港警察署に逮捕された。犯人は骨折などの重傷を負い福岡市内の病院へ搬送された。
ハイジャック機は犯人以外の乗客を乗せ、翌12月17日未明に福岡空港を離陸、北京首都国際空港に帰還した。
ハイジャック犯はは容体が回復後の1990年1月に、福岡空港から羽田行きの日本航空機で東京へ移送された。
日本の捜査当局に対し、犯人は「6月に発生した天安門事件でデモに参加したため2か月間身柄を拘束されていた。そのため最終的には大韓民国に亡命したかった」と供述し政治亡命が目的のハイジャック事件であったと主張した。そのため日本国内からは政治犯の引渡しを禁止した逃亡犯罪人引渡法に該当するものであり、もし中華人民共和国に送還したら政治犯として死刑になるおそれがあり、人道上許さないとの声が人権団体などから起きた。
そのため前例のない判断を司法当局は迫られたが、東京高等裁判所第5特別部は1990年4月20日にハイジャック犯罪を重視(中華人民共和国側は犯人は天安門事件とは別の容疑で拘束されていたと主張していた)し、中華人民共和国への身柄引き渡しを決定した。
犯人は1990年4月28日に中華人民共和国政府に身柄を引き渡され本国に送還された。中華人民共和国側は国際的世論を考慮したためか公開裁判で審理を行い、犯人に対し北京市中級人民法院は7月18日に懲役8年、政治権利剥奪2年を言い渡し上訴がなかったためそのまま確定した。
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