1988年(昭和63年)5月30日、沖縄県下地島空港で片方のエンジンを止めた状態での離陸訓練をしていた全日空のボーイング737-200型機が、滑走路を逸脱し、空港エプロン上で停止した。同機には操縦教員および練習生2名、合計3名が搭乗していたが死傷者はなかった。
80s!
1988年(昭和63年)5月30日、沖縄県下地島空港で片方のエンジンを止めた状態での離陸訓練をしていた全日空のボーイング737-200型機が、滑走路を逸脱し、空港エプロン上で停止した。同機には操縦教員および練習生2名、合計3名が搭乗していたが死傷者はなかった。
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1985年(昭和60年)5月29日、ヘイゼルの悲劇。ヘイゼルの悲劇は、1985年5月29日にベルギー・ブリュッセルにあるヘイゼル・スタジアムで行われたUEFAチャンピオンズカップ1984-85決勝のリヴァプール(イングランド)対ユヴェントス(イタリア)の試合前に、サポーター同士の衝突がきっかけとなり発生した群集事故である。この事故により39人が死亡、400人以上が負傷した。
ヘイゼルの悲劇から10年後、エゼル競技場は150億ベルギー・フラン(当時のレートで5,000万ドル)を投じて再建・改称された。新競技場を1993年に逝去した国王ボードゥアン1世を記念してボードゥアン国王競技場と改名された。
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1987年(昭和62年)5月28日、ロシアの首都モスクワの都心部にある赤の広場に、西ドイツの青年マチアス・ルスト(当時19歳)の操縦するセスナ機が強行着陸する事件が起きた。
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1983年(昭和58年)5月26日、秋田県の能代市西方沖80 km深さ14 kmの地点でM7.7の地震が発生した——日本海中部地震である。地震発生後、日本海側では10メートルを超える津波が押し寄せ、多数の被害をもたらした。地震による死者は104人であったが、このうち100人は津波によるものと記録されている。
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1980年(昭和55年)5月24日、JOC(日本オリンピック委員会)は臨時総会を開き、モスクワオリンピックへの不参加を決議した。
1980年モスクワオリンピックは、1980年7月19日から8月3日までの16日間、ソビエト連邦の首都モスクワで開催されたオリンピック競技大会。共産圏、社会主義国では初の開催となった。
当時の冷戦下において、前年1979年12月に起きたソ連のアフガニスタン侵攻の影響を強く受け、対立するアメリカ合衆国のカーター大統領は、1980年1月にボイコットを主唱した。日本をはじめ西側諸国約50カ国が不参加を決めた。
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1980年(昭和55年)5月23日(現地時間)、黒澤明監督の『影武者』がカンヌ国際映画祭でパルム・ドール(グランプリ)を獲得(日本時間では5月24日)。第33回カンヌ国際映画祭は1980年(昭和55年)5月9日から22日にかけて、フランスのカンヌで開催された。カンヌ国際映画祭、ベルリン国際映画祭、ヴェネツィア国際映画祭は、世界三大映画祭と称される。
『影武者』は、1980年(昭和55年)4月26日に公開された日本の歴史映画である。監督は黒澤明、主演は仲代達矢。ハリウッドの大手スタジオから世界配給された最初の日本映画で、黒澤を敬愛するフランシス・フォード・コッポラ、ジョージ・ルーカスが外国版プロデューサーとして参加した。
主役の勝新太郎の降板騒動など公開前から話題を呼び、当時の日本映画の歴代映画興行成績(配給収入)1位を記録、1983年に蔵原惟繕監督の『南極物語』で抜かれるまで破られなかった。
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1984年(昭和59年)5月20日、外国人初の関取・高見山が引退。
ハワイ・マウイ島出身の高見山は、高砂部屋にスカウトされ、1964年(昭和39年)2月22日に来日した。同年同年3月場所にて初土俵を踏んだ。
「外国人」として注目を浴びていた高見山は、初土俵から3年後の1967年(昭和42年)3月場所で新十両に昇進し、初の外国出身外国籍の関取となった。その力量も期待されるようになり、翌1968年(昭和43年)の1月場所で新入幕を果たし、史上初の外国出身外国籍の幕内力士となった。1969年(昭和44年)11月場所で小結に昇進。1972年(昭和47年)7月場所では13勝2敗の好成績で史上初の外国出身力士による幕内最高優勝を遂げた。翌場所には外国出身で初の関脇に昇進し、大関候補の一人と目されるようになったが、大関昇進は果たせなかった。
「40歳まで相撲をとりたい」、「(当時建造中だった)両国国技館で相撲をとりたい」と語っていた高見山だったが、1984年(昭和59年)5月場所、40歳まであと1ヶ月のところで力尽きて引退を表明、両国国技館で相撲をとる夢も果たせなかった。引退宣言は場所中に唐突に行われたため、相撲ファン以外も驚かせマスコミで大きく取り上げられた。同場所千秋楽の最後の一番(玉龍戦)は黒星だったが、満員の観衆から大声援を受け、花道を引き揚げる際には花束も贈呈された。引退に際して「20年間、相撲を取り続けてきたことを誇りに思う」「生まれ変わっても力士になりたい」と力強く語った。
高見山は、「ジェシー」の愛称でも親しまれ、その人柄・キャラクターからCMやテレビ番組にも多数出演していた。なかでも、松下電器産業 携帯型テレビ「トランザム」のCMで披露したタップダンスや、丸八真綿 「マルハッチ!」「二倍二倍、二枚二枚」のキャッチフレーズは大きな話題となった。
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