月: 2021年4月

  • 1985年4月30日

    1985年4月30日

    1985年(昭和60年)4月30日、広島県福山市にて、トラック運転手(45歳)が自販機の上に置かれていたオロナミンCを飲み、5月2日に死亡するという事件が起こった。運転手の嘔吐物から、除草剤であるパラコートが検出された。これがパラコート連続毒殺事件の発端となった。

    1985年、日本各地でパラコートを用いた無差別毒殺事件が次々と発生し、その全てが未解決事件となっている。一連の事件は全12件とされ、最後の事件は1985年11月17日、被害者は、自販機の取り出し口にあったコーラを見つけて持ち帰り、それを飲んだ一週間後に死亡した埼玉県の女子高校生(17歳)だった。

    関連事件(模倣犯)も含めると全34件の事件が発生し、13人が死亡した。

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  • 1985年4月29日

    1985年4月29日

    1985年(昭和60年)4月29日、春の天皇賞にて、シンボリルドルフ (牡5歳、騎手・岡部幸雄)が1着となり、GI5勝目を達成、五冠馬となった。

    1984年(昭和59年)に皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞を制し三冠、さらに第29回有馬記念(1984年12月23日)にて1着。前述の天皇賞にてGI5勝目を達成した。

    その後、1985年11月24日のジャパンカップ、1985年12月22日の有馬記念を制したシンボリルドルフは、史上初の七冠馬となった。

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  • 1988年4月28日

    1988年4月28日

    1988年(昭和63年)4月28日、アロハ航空243便(ボーイング737型機)がヒロからホノルルへ飛行していたところ、機体前方の屋根の一部が突然剥がれ落ちる事故が発生した。機体の操縦に支障はなかったため、緊急降下を行いマウイ島のカフルイ空港に緊急着陸した。事故発生時、乗務員1名が機外に飛ばされ、のちに死亡と認定されたが、残りの乗員乗客93名は無事に生還した。事故の原因は、機体の金属疲労と腐食とされている。

    1990年(平成2年)2月、この事故を主題としたテレビドラマ「奇跡の243便(原題:Miracle Landing)」がアメリカのテレビ局CBSにて放映された。

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  • 1991年4月27日

    1991年4月27日

    1991年(平成3年)4月27日、嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線が営業を開始した。1989年(平成元年)3月に廃止されたJR西日本・山陰本線嵯峨駅 – 馬堀駅間の旧線を観光専用鉄道として再生した路線である。トロッコ嵯峨駅(京都市右京区)、トロッコ嵐山駅(京都市右京区)、トロッコ保津峡駅(京都市西京区)、トロッコ亀岡駅(京都府亀岡市)の4駅で営業している。

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  • 1986年4月26日

    1986年4月26日

    1986年(昭和61年)4月26日、 ソビエト社会主義共和国連邦の構成国、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で、爆発事故が発生した。爆発とその後の火災により、14エクサベクレルの放射性物質が大気中に放出され、大惨事となった。ソ連政府は、この事故による運転員や消防士などを合わせた死者数は33名と発表した。のちに決められた国際原子力事象評価尺度(INES)では深刻な事故を示すレベル7に分類された。

    チョルノーブィリは、ウクライナ北部・キエフ州の都市である。日本語では、ロシア語由来のチェルノブイリと書かれることも多い。

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  • 1989年4月25日

    1989年4月25日

    1989年(平成元年)4月25日、竹下登内閣総理大臣が辞任を表明した。1988年(昭和63年)に発覚したリクルート事件で竹下自身の疑惑も浮上し、当時の政治不信はピークに達していた。内閣支持率は軒並み10%を割り込み、財界からも竹下の退陣を迫る声が挙がっていた。1989年4月22日には、竹下が公表していなかったリクルート社からの借入金の存在がスクープされ、進退が窮まった。内閣総辞職を表明した翌日の4月26日、秘書で竹下の金庫番といわれた青木伊平が自殺している。

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  • 1980年4月24日

    1980年4月24日

    1980年(昭和55年)4月24日から25日にかけて、イーグルクロー作戦(テヘラン駐アメリカ大使館人質救出作戦)が決行された。1979年(昭和54年)11月4日に発生したイランアメリカ大使館人質事件で人質となった大使館員及びその家族ら53名の救出が目的だった。アメリカ軍4軍を総動員させて臨み、デルタフォースを初めて投入した有名な作戦であるが、ヘリコプターのトラブルにより失敗に終わった。

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  • 1980年4月23日

    1980年4月23日

    1980年(昭和55年)4月23日、静岡県裾野市に「富士サファリパーク」が開園した。開発区域の住民協議会は自然保護などを訴え、裾野市に対し、開発行為許可の取消訴訟を起こしたが、静岡地方裁判所は住民らの請求権は認めず(住民らは法律上の利益を有しないため、原告適格を有しない)、棄却した。

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  • 1981年4月22日

    1981年4月22日

    1981年(昭和56年)4月22日、マザー・テレサが初めて来日した。日本滞在中は東京都内各所で講演を行い、4月28日に離日した。マザー・テレサは、1982年4月、1984年11月にも来日している。

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  • 1989年4月21日

    1989年4月21日

    任天堂の携帯ゲーム機「ゲームボーイ」発売。当時の販売価格は12500円(税込)。同時に発売されたゲームソフトは『スーパーマリオランド』『アレイウエイ』『ベースボール』『役満』の4本だった。発売当時、任天堂社内では「今さらモノクロで売れるのか」というような声もあったらしいが、売上は順調に伸び、1989年の夏頃には品薄状態になっていた。1989年8月には月産40万台、1990年8月には月産100万台体制になった。2000年には累計販売台数が1億台を突破した。

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  • 1989年4月20日

    1989年4月20日

    1989年(平成元年)4月20日、朝日新聞の夕刊一面に「サンゴ汚したK・Yってだれだ」とのタイトルで、沖縄の珊瑚礁に落書きがされているとの記事が掲載された。

    記事の全文は以下の通り。

    写’89 地球は何色? サンゴ汚したK・Yってだれだ

    これは一体なんのつもりだろう。沖縄・八重山群島西表島の西端、崎山湾へ、直径8メートルという巨大なアザミサンゴを撮影に行った私たちの同僚は、この「K・Y」のイニシャルを見つけたとき、しばし言葉を失った。

    巨大サンゴの発見は、7年前。水深15メートルのなだらかな斜面に、おわんを伏せたような形。高さ4メートル、周囲は20メートルもあって、世界最大とギネスブックも認め、環境庁はその翌年、周辺を、人の手を加えてはならない海洋初の「自然環境保全地域」と「海中特別地区」に指定した。

    たちまち有名になったことが、巨大サンゴを無残な姿にした。島を訪れるダイバーは年間3000人にも膨れあがって、よく見るとサンゴは、空気ボンベがぶつかった跡やらで、もはや満身傷だらけ。それもたやすく消えない傷なのだ。

    日本人は、落書きにかけては今や世界に冠たる民族かもしれない。だけどこれは、将来の人たちが見たら、80年代日本人の記念碑になるに違いない。百年単位で育ってきたものを、瞬時に傷つけて恥じない、精神の貧しさの、すさんだ心の……。

    にしても、一体「K・Y」ってだれだ。

    この落書きが、後に、朝日新聞の記者、カメラマンが、この記事のために書いたもので、記事そのものがまったくの捏造であることが判明し、大問題となった。地元沖縄県竹富町ダイビング組合から「サンゴに書かれた落書きは、取材者によるものではないか」 との指摘を受け、朝日新聞は調査に着手、取材に行き過ぎがあったことを発表した。

    朝日新聞は、1989年5月16日の朝刊におわびを掲載した。その文中には「西表島崎山湾沖にあるアザミサンゴの周辺一帯に、いくつかの落書きがありました。この取材に当たったカメラマン2人のうち1人が、そのうちの「K・Y」という落書きについて、撮影効果を上げるため、うっすらと残っていた部分を水中ストロボの柄でこすり、白い石灰質をさらに露出させたものです。」とあった。もちろん、これもウソだった。

    さらに「この取材は本来、自然破壊の現状を訴え、報道することが目的でしたが、この行為は、明らかにこれに反する行き過ぎであり、朝日新聞社として深くおわび致します。 」とあるが、「行き過ぎ」って、何だろうと思う。

    1989年5月20日、朝日新聞は再度、朝刊にておわびを掲載した。「サンゴ写真 落書き、ねつ造でした 深くおわびします」とのタイトルは、読者にどんな印象を残したのだろう。

    この事件から十数年後の2007年、「KY」は別の意味を付され、流行語となった。「KY」の本当の意味や語源をあれこれと想像してみるのも楽しい。

    80s!